ブドウ偉人伝

ブドウとは

川上善兵衛  近代ブドウ栽培の父

川上善兵衛は、慶応4年(1868)、大地主の長男として現在の新潟県上越市に生まれました。当時の日本は、「文明開化」「殖産興業」を旗印に、近代国家へと脱皮を図る時期で、善兵衛もまた進取の精神に富む人だったので、福沢諭吉の慶応義塾で学び、あの勝海舟とも交流があったといわれています。この海舟との交流で、今後は食生活が欧米化すると確信し、ブドウ栽培するキッカケの一つといなったとも言われています。

鎖国が解かれると、海外との貿易が盛んになり、それまで一部の人間にたしなまれる程度だったワインも輸入されるようになりました。そこで善兵衛は、貧困に苦しむ農民の救済と、殖産興業のため、広大な自宅の庭を開墾して「岩の原葡萄園」を造り、ブドウ栽培とワイン製造を始めました。ここでは、多くの農民を従業員として雇ったので、農民の生活は向上しましたが、経営は苦しく、善兵衛は私財を投げ打ってまでこの葡萄事業に人生を懸けました。

その後、養子に葡萄園の経営を委譲した後、本格的に育種に取り掛かりました。500以上の品種の試作栽培しましたが、結果は思わしくなく、そこで、米国ブドウの栽培し易さと、欧州ブドウの品質の良さに着目し、両方の品種を掛け合わせてみました。その中で誕生したのが、善兵衛の代表作で、現在でもワイン用として親しまれている「マスカット・ベイリーA」です。この品種は、欧州ブドウと米国ブドウを祖先とし、1800年代後半にアメリカで育成された「ベイリー」と、英国産で、比較的耐病性のある「マスカット・ハンブルグ」を掛け合わせたブドウで、生食、醸造用の両方に適し、現在でも多く生産されています。




大井上康  ブドウ育種家の巨匠 巨峰生みの親

巨峰の生みの親 大井上康は、明治25年(1892)に海軍少将の子供として、広島県の江田島で生まれました。しかし、幼少の頃に結核性関節炎を患ったため、片足が悪く、軍人にならずに農学を志しました。大正6年(1917)に東京農業大学卒業後、日本で最初の洋酒バーである「神谷バー」を経営する神谷酒造の牛久葡萄園に、主任技師として招かれ、栽培と研究の日々を送りました。しかし、企業の営利にとらわれることなく、自分の農業理論を実践し研究したいと考えるようになり、大正8年(1919)に、静岡県中伊豆町に「大井上理農学研究所」を設立しました。しかし、市井の研究家だったので、費用の捻出に苦労し、農作物の販売やメッキ加工などで糊口を凌いでいました。

大井上が目指したブドウは、「雨の多い日本でも栽培できるおいしい大粒のブドウ」で、着目したのが、枝変わりにより大粒化したブドウを掛け合わせて、新たな大粒品種を作出することです。この枝変わりとはブドウにはまれにみられる現象で、枝の途中で突然変異し、その先の果実や葉が、品種本来の形状より大きくなることです。

そこで、岡山県で発見された「キャンベルアーリー」の大粒枝変わりである、「石原早生」と、オーストラリアで発見された「ロザキ」の大粒枝変わりである、「センテニアル」を掛け合わせてみることにしました。しかし、「センテニアル」は南半球のオーストラリアにあるため、赤道を通って輸入しなければなりませんでした。輸送手段が船舶しかなかった時代なので、輸送中の枯死が多く、苦労の末、やっと自分の圃場に根付かせることに成功しました。その後交配し、そのうちの優れた1本を研究所から見える富士山に因で「巨峰」と名付けました。

また、大井上の功績として、「栄養周期説」を唱え普及に努めたことも挙げられます。「栄養周期説」とは、官の技術者が推奨する、窒素肥料を多く与える栽培方法とは異なり、作物の成長過程で、必要な時期に必要な肥料を適量与えるということです。例えば、生育期には窒素を与えるが、成果物が成る生殖段階には窒素を切らすことにより、樹体を無駄に大きくせず、実に養分を集中して与えることができるということです。当時はなかなかこの理論が理解されず、逆に弾圧され、失意のまま昭和27年(1952)に60歳でこの世を去りました。弟子の恒屋棟介は弔辞で「われらは天動説を否定し、地動説を信じて死の思いをしたコペルニクスの教え子、ガリレオたらん」と、大井上の思いを引き継いでいく覚悟を誓いました。




井川秀雄  誰がなんと言ってもやってみないとわからない

岡山名産のピオーネを育種したのが、井川秀雄です。井川は明治29年(1896)に静岡県伊豆長岡町に生まれました。井川家は資産家でしたが、井川が少年時代には家産が傾いていたので、促成栽培や西洋野菜など当時としては新しい農業に取り組み家計を助けていました。

井川が20歳の時、将来を左右する大きな出会いがありました。それは、静岡で精力的にブドウの育種に取り組んでいた、大井上康です。大井上からブドウの育種について手ほどを受け、以後ブドウ精農家として露地ブドウの栽培に励みました。

1950年代半ば、井川が50歳半ばになると、育種に取り組むようになりました。井川は、巨峰よりも栽培容易で、巨峰以上の品質のブドウを作りたいと考え、それにはまず、日本で交配し選抜した品種でなければ日本の気候風土に合わないという思いがありました。そこで、巨峰にカノンホールマスカット(マスカット・オブ・アレキサンドリアの4倍体芽条変異)を交配し、ピオーネを作りました。

ピオーネは巨峰より花ぶるい(花が咲いた後、結実せず落花してしまうこと)が激しい品種です。このため、ジベレリン処理による結実向上を図り、さらに種なしで大粒になることで消費者の嗜好をつかみました。このことが現在主流となった、多くの大粒種なし4倍体品種の栽培方法を確立したきっかけとなりました。

「誰がなんと言ってもやってみないとわからない」 井川の名言として語り継がれている言葉です。
ピオーネはイタリア語で開拓者という意味ですが、まさに井川は進取の精神を持ってブドウの育種に励んできました。ピオーネ以外にも多くの優れた品種を今に残し、また精神を現代のブドウ栽培に携わる人間にの残したことが大きな功績だと思います。




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