ひめゆりの塔

ひめゆりの塔

概要

昭和20年(1945)の4月、沖縄に米軍が上陸し、日本軍をせん滅するため、沖縄を南下していきました。沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校からは、主に陸軍病院で看護活動を行うため、生徒222名、教師18名が南風原の沖縄陸軍病院に動員されました。そしてそのうち136名が戦場で命を落としたのです。両校から動員された生徒・教師たちを戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ぶようになりました。

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校には、それぞれ校友会誌があり、一高女は「乙姫」、師範は「白百合」と名づけられていました。両校が併置された際、校友会誌もひとつになり、両方の名前を合わせて「姫百合」と名づけられました。ひらがなで「ひめゆり」と使うようになったのは戦後です。

ひめゆりの塔は、終戦翌年の昭和21年(1946)4月5日に、旧真和志村民らが、多くのひめゆり学徒が亡くなった伊原第三外科壕の上に建立され、2日後の4月7日に第一回慰霊祭がとり行われました。隣接するひめゆり平和祈念資料館は、平成元年(1989)に、ひめゆり学徒隊に関する資料を保管、展示し、戦争の悲惨さを後世に伝えるため開館しました。


住所・連絡先

住所
電話番号
交通
ホームページ
沖縄県糸満市字伊原671-1
098-997-2100(ひめゆり平和祈念資料館)
那覇空港から 自動車で40分
http://www.himeyuri.or.jp/top.html

感想

沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり部隊」が看護活動を行っていた最後の場所です。第1外科壕は、県道を挟んだ反対側にあります。

沖縄戦で南下した部隊が、ここに移動した時には医薬品や食糧も底をついていました。その後、壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが死亡、生還者はほとんどいませんでした。生き残った者も、さらに荒崎海岸に追い込まれ自決したりした。「ひめゆり部隊」の犠牲者194人のうち、死者が128人であることが示す通り、この戦争の悲惨さを痛感させられます。

「ひめゆりの塔」は、この壕の上に建てられました。壕の中は傾斜がきつく、この中で泥や雨、砲弾にさらされながら生活していたとは、現在の私たちの想像を絶するものがあります。

塔の横には「ひめゆり平和祈念資料館」があり、生き残った女性の貴重な証言を文章で閲覧することができます。その証言はまともに直視できないような内容ですが、今後絶対戦争を起こしてはならないことを心に刻むために読む必要があるのではないでしょうか。


写真(クリックすると拡大します)


ひめゆりの塔 ひめゆりの塔 ひめゆりの塔

慰霊碑(納骨堂)

ひめゆりの塔

第三外科壕

ひめゆりの塔 ひめゆりの塔 ひめゆりの塔

ひめゆり平和祈念資料館

顕彰碑

ひめゆりの塔の記

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