岡山後楽園 |
岡山後楽園は、備前岡山藩主 池田綱政が、家臣の津田永忠に命じ、14年の歳月を掛け元禄13年(1700)に完成させました。以降も藩主の好みで改修されましたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられています。かつては藩主の静養の場、賓客接待の場として使用されましたが、次第に藩内の人々にも観覧が許され、明治17年(1884)に岡山県に譲渡されてからは一般公開されるようになりました。その後、昭和9年(1934)の水害、昭和20年の戦災では大きな被害を被りましたが、江戸時代の絵図に基づいて復旧されました。
江戸時代の代表的な池泉回遊式庭園で、在りし日は旭川から後楽園用水を引いて、対岸からサイホンの原理を応用して園内に水を引き入れていました。これにより、池や滝などの優れた水景を作り上げています。また、砂質土壌であったので苔の代わりに野芝を使い、緑豊かな園景を表現しています。中央には中島を浮かべた池があり、庭園の周りには竹林を巡らし、その外側には旭川に沿って散策路が作られています。
後楽園の名称は、岡山城の後ろに造られた園という意味で後楽と呼ばれていましたが、「先憂後楽」(常に民に先立って国のことを心配し、民が楽しんだ後に自分が楽しむという意)の精神に基づいて造られていることから、明治4年(1871)に後楽園と改められました。庭園中心の唯心山からの景色はもちろんすばらしいですが、美人の眉を思わせる操山、その中腹の安住院多宝塔を借景とした延養亭からの景観も大変美しく見事です。面積133,000㎡ 芝生面積18,500㎡。国指定特別名勝
延養亭から沢の池方向を見ると、ちょうど後ろの山が借景になっており、庭とひとつの景観を生み出しています。その姿は驚くほど一体化しており、見る人に感動を間違いなく与えてくれると思います。
園内は公園と庭園を合わせた造りになっており、人の立ち入りを禁止した沢の池周りの芝地、家族が遊べる千入の森辺りの芝地と区分けされていました。園内は広く、また芝も良く管理されており青く美しい景観を楽しませてくれます。亀型の刈り込み、岡山城など面白いもの、珍しいものもアクセントとして庭を引き立たせていました。毎年、2月の上旬には害虫防止のための「芝焼き」が行われ、広大な芝生広場一面が黒くなった姿は壮観です。