北畠氏館跡庭園

北畠氏館跡庭園

歴史

伊勢の国司であり、南北朝時代に南朝護持のため戦った北畠顕能(北畠親房の子)は、戦略上の拠点として興国3年(1342年)に霧山城を山頂築き、麓に館を建てました。この館は、北畠御所または多気御所と呼ばれていました。

室町時代の中期以降、将軍家の世継ぎや名家の家督争いが絶えず、将軍は細川高国(1484~1531)に命じ、高国の婿である北畠晴具に援軍を要請するため、伊勢に遣わせました。高国は伊勢国司の館に滞在していた享禄3年(1530年)、館の南側に武家書院式庭園であり、池泉鑑賞式庭園を作庭しました。

高国は、翌年(享禄4年(1531年)) 天王寺合戦で敗れて自決するときに、辞世の句を北畠晴具に贈りました。
「絵にうつし石を作りし海山を のちの世までも目かれずや見ん」

この辞世の句と、援軍要請のため伊勢に来る前に寄った近江の豪族 朽木稙綱の座敷前に作庭した庭園(旧秀隣寺庭園)の曲水様式などが、北畠氏館跡庭園と酷似していることから、北畠氏館跡庭園は高国作庭といわれています。

庭は全体的に苔むしており、池は複雑に柔らかく屈曲した「米字池」の名で知られています。東側の須弥山石組は、6尺4寸(約1.9m)の孔子石を中心として、螺旋状に配されたやや小振りな立石(4尺5寸 約1.4m)が、蹲って教えを請うように据えられています。また目通り4.5mの老杉など、庭全体的に多くの巨木が悠然と立っています。面積 約2805㎡ 国指定名勝、史跡


住所・連絡先

住所
電話番号
交通
ホームページ
三重県津市美杉町上多気1148
059-275-0615
JR名松線 伊勢八知駅下車 タクシーで20分
http://www.ztv.ne.jp/web/misugimura/kyuseki/teien.html

感想

三重の険しい山峡を超えるとやっと辿り着く、山々に囲まれた庭園です。途中でこんなところに本当に庭園があるのかと不安になる位の奥深い山中にあります。

場所が場所だけにあまり期待はしていなかったのですが、庭園に入るなり神々しい多くの巨木と一面苔むした庭園に感嘆します。米字池の護岸が名の通りかなり湾曲しており、また園路は高低差があるので、池に沿って歩くと非常に変化に富んだ庭の景が楽しめます。ある時は深山の中、琴橋辺りは穏やかな池泉の景が、須弥山石組みでは幽遠で何か近寄りがたいのですが、見ているうちに配された石組みの妙に引き込まれるような不思議な感がしてきます。

ここは本当に素晴らしい庭園です。交通は不便ですが自信を持っておすすめできる庭園ですので是非訪れて見て下さい。


写真(クリックすると拡大します)


北畠氏館跡庭園 北畠氏館跡庭園 北畠氏館跡庭園

北畠神社入口

北畠神社

米字池と琴橋

北畠氏館跡庭園 北畠氏館跡庭園 北畠氏館跡庭園

中島

滝石組

石橋

北畠氏館跡庭園 北畠氏館跡庭園 北畠氏館跡庭園

神々しい巨木

亀石と琴橋

琴橋からの景

北畠氏館跡庭園 北畠氏館跡庭園 北畠氏館跡庭園

琴橋からの景

米字池と須弥山石組

須弥山石組

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岡山 太陽のそばの果樹園
〒716-1131
岡山県加賀郡吉備中央町上竹688-2

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