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果樹園について
ぶどうとは?ぶどうの豆知識です。
果樹園について

ぶどうの種別

  • 「ヨーロッパ種」
  • 西アジアのコーカサスからカスピ海沿岸にかけての地方が原産。 品質が優良。マスカット・オブ・アレキサンドリアが有名です。

  • 「アメリカ種」
  • 北米大陸原産。病気に強い性質を持っています。

  • 「欧米雑種」
  • 「ヨーロッパ種」と「アメリカ種」両方の流れをくむ品種。

多雨の日本では「ヨーロッパ種」の栽培が困難なので、品質優良な「ヨーロッパ種」と、強健な「アメリカ種」とを交配した「欧米雑種」が主流です。

生産量

果実の中では生産量は最大で、世界全体で年間7499万トンにも達しており、そのうち約80%がワインの醸造用に使われています。世界のぶどう生産量は、中国、イタリア、アメリカ、フランス、スペイン、トルコの順になっており、1位の中国は1,262万トンと日本の約74倍の生産量を誇っています。(データは2016年)

日本の収穫量は17万2,700トンで、県別では1位は山梨県で3万6,900トン(全体の21%)です。岡山県は、長野、山形に続き4位で、1万5,800トン(全体の9%)となっています。(データは2017年)

ぶどう生産量

効用

ブドウ糖や果糖など吸収されやすい糖質が多く含まれているので、疲労回復の効果が望めます。また、黒ぶどう、赤ぶどうの果皮には、体が酸化するのを防ぐ(抗酸化作用)、「ポリフェノール」が含まれており、動脈硬化を予防し、目の疲れに効果があると言われています。(出典 奥深いぶどうの世界:農林水産省HP)

果粉(ブルーム)

ぶどうの皮に付着している白い粉は残留農薬ではなく、「果粉(ブルーム)」といい、角皮に含まれる天然のワックスです。「果粉(ブルーム)」の成分は、オレアノール酸が約80%で、他にエスレル、脂肪酸、アルデヒド、パラフィン等が含まれており、結晶化し、白く見えるのです。

これらの物質は、非水溶性であるため、水を弾き、病気から守る働きがあります。したがって、白い粉が付着しているぶどうは、新鮮でおいしいと言えるのです。

四倍体ぶどう先人が作った日本独特の大粒ぶどう
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通常、根、枝、葉などの体細胞(栄養細胞)の染色体数は、性細胞(生殖細胞)の2倍あります。具体的には、性細胞の染色体は19個なので、体細胞は38個になります。体細胞は性細胞の2倍なので、これらのぶどうをニ倍体と言います。昔ながらのぶどうである、デラウェアやマスカット・オブ・アレキサンドリアは、ニ倍体にあたります。

しかし、ニ倍体ぶどうを栽培していると、ある枝から先の葉や果実が、その品種本来の姿よりも大きくなることがまれにあります。これを調査してみると、体細胞の染色体が性細胞の4倍である76個のぶどうであることがわかりました。このぶどうを四倍体と言い、ピオーネや巨峰など、現在の生食ぶどう主流となっています。

この四倍体ぶどうは、醸造より生食が多い日本独特の食文化が作った産物で、その転機となったのが大井上康が育種した巨峰なのです。巨峰は、ニ倍体であるキャンベルアーリーとロザキが、それぞれ四倍体に変異した石原早生とセンテニアルを交配して作られた品種です。これは大井上康が、大粒ぶどうを作るべく四倍体ぶどう同士を交配した、意図あるぶどうなのです。

四倍体ぶどうは、葉などが大きいので、どうしても樹勢が強くなる特性があります。このため、結実しない「花ぶるい」を起こすことが多く、巨峰も当初は、経済栽培ができる品種として認められませんでした。しかし、大井上康やその門弟の努力で、樹勢を抑え、安定して栽培する方法を確立されたことにより、その高品質の果実が世に認められるようになりました。

その後、ジベレリン処理による花ぶるいを抑制し、なおかつ種無しにできる技術が開発されてことにより、巨峰を親とした四倍体ぶどうの育種が盛んになりました。巨峰とカノンホール・マスカットを交配したピオーネ、ピオーネにセンテニアルを交配した翠峰、巨峰の実生の安芸クイーンなど、巨峰の残した功績は、現代のぶどうにおいて非常に大きな役割を果たしたと言っても過言ではありません。先人の残した大きな財産で、私たちは大粒で甘いぶどうを楽しむことができるのです。

ぶどう生産量
ぶどうの歴史1億3000年の歴史
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ぶどうの原産地

現在、生食用や醸造用で生産されているぶどうは、ヨーロッパ原産のヴィニフェラ種(Vitis vinifera L.)、アメリカ原産のラブラスカ種(Vitis labrusca L.)、これら両種間の雑種の3種に大別されます。

ヨーロッパのぶどう

ぶどうの誕生はとてつもなく古く、ぶどうの化石から判断して、最初のキシテス属が出現したのは白亜紀(約1億3000年前)とされています。新世代第三紀(約1000万年前)には世界中で繁栄していましたが、新第三紀後半から第四紀更新世(約258万年前)にかけての氷河期になるとほとんど絶滅してしまいました。そのなかでアルプスの南西部に生き残った一種が、氷河期後に繁殖し、雌雄異株のヨーロッパ野生種(Vitis silvestris Gmil.)になったといわれています。このヨーロッパ野生種が変化し、栽培型両全花のヴィニフェラ種(Vitis vinifera L.)となり黒海東南岸の小アジア地方に出現し、東南ヨーロッパや西アジア地方に伝播していったと考えれれています。

アメリカのぶどう

16世紀にアメリカ大陸が発見され、アメリカにもぶどうが自生していることが分かりました。アメリカでは氷河期後も多くの種が残り、その中で代表的なのはラブラスカ種で、アメリカ産のぶどうでは、最も食用として適した種です。この他に台木用のエースティバレス種(Vitis aestivalis Michx.)、リンケクミー種(Vitis lincecumii Buckl.)、ブルピナ種(Vitis vulpina L.)などがあります。

ラブラスカ種は、アメリカに分布するぶどうの中では最も北部の北米大陸の東北部からカナダ南東部に自生しています。別名フォックスグレープ(Fox grape)と呼ばれ、果実に狐臭がし、ワイン醸造に必要な糖度まで上がらないことから品質はヴィニフェラ種に劣ります。

新しい品種の誕生

ヨーロッパぶどうとアメリカぶどうは容易に交配できることから、ヴィニフェラ種の優秀な果実品質と、強健で栽培し易いラブラスカ種の特性を狙った新しい交雑品種が育種されるようになりました。

栽培の歴史

ヨーロッパのぶどう

ヨーロッパのぶどうはおよそ3グループに分類されます。1つ目のポンティカ群は、黒海沿岸のグルジア・小アジアに由来し、東ヨーロッパのワイン用品種がこれにあたります。2つ目のオリエンタリス群は、カスピ海沿岸に由来し、主に生食される品種になります。3つ目のオクキデンタリス群は、ヨーロッパ南部、北アフリカに分布し、黒海、カスピ海沿岸のぶどうが西進し、それらが野生ぶどうなどと交雑して生まれた群と考えられ、「カルベネソービニオン」「ピノー」など重要なワイン用の品種がこれに属します。

人類が文字を発明した時からこれらの地域にはぶどうがありました。その証拠として、エジプトでは、紀元前1500年頃の墓には、ぶどうの収穫からぶどう酒を作るまでを描いた壁画が発掘されており、ミイラとともにぶどうの種子も発見されています。また、旧約聖書の「出エジプト記」にもぶどう畑の記述がでてきます。そして、ギリシャ神話では酩酊の神 バッカスがぶどうを発見しぶどう酒を作ったと記されています。

ヨーロッパ各地への伝播は、フェニキア人(古代地中海の東岸に栄えた商業民族)が、ギリシャには紀元前800~700年に、イタリアには紀元前750年頃に、さらにフランスには紀元前600年頃に伝えたとされています。フランスでは四世紀には現在のぶどうの産地である、ボルドー、シャンパーニュ、ボージョレーが知られるようになりました。

生食用としては、オリエンタリス群の「マスカット・オブ・アレキサンドリア」がよく知られています。この品種は、北アフリカで古くから栽培されており、紀元前にはギリシャ・ローマにも伝えられたと考えられています。紀元前から存在する品種が、現在でも脈々と栽培され続けていることは奇跡であり、日本ではほぼ岡山県のガラス温室のみで栽培される高級ぶどうとして知られています。

フィロキセラの発生と台木の導入

1863年、ヨーロッパではフィロキセラが大発生し、ぶどうの栽培史上最大の危機となりました。ヨーロッパの栽培面積220万haのうち、130万haが大被害、または全滅するなど壊滅的な被害を受けました。フィロキセラとは、根に寄生する昆虫で、根の表面にくぼみを作り、この刺激で根粒がつくられ養分吸収が阻害されてしまいます。これにより、ぶどうは衰え枯死することもある非常に恐ろしい害虫なのです。

その後、アメリカの昆虫学者であるC.V.ライレイは、1871年にアメリカの野生ぶどうにはフィロキセラの抵抗性があることを示したことから、フランス モンペリエ大学のプランション教授は、地中に埋まる台木部分をアメリカ産ぶどうとし、その上にヨーロッパぶどうを接いだぶどうを多く試し、フィロキセラの害を受けないぶどうを作ることに成功しました。これにより、人類は品質の良いヨーロッパぶどうを絶滅の危機から救うことに成功しました。

アメリカのぶどう

アメリカの気候は、カルフォルニアを除きヨーロッパぶどうの栽培には適した環境ではありません。東部の南よりの地域では夏期の降水量が多く、病害や果実の裂果が多発し、北よりの地域では冬期の温度が低く栽培が困難となります。このため、アメリカ原産のラブラスカ種を交配したぶどう、またはラブラスカ種とヨーロッパぶどうを交配したぶどうを育種し、アメリカの気候に合うぶどうを開発しました。

ラブラスカ種の特性としては、耐病性があるが、フォクシー臭(狐臭)もあるので、香りを重要視するワイン用には不向きです。しかし、耐寒性もあり、降雨にも耐えることから、日本の気候にも合うので、積極的に導入されました。代表的な品種としては、デラウェア、キャンベルアーリー、スチューベン、バッファローなどが挙げられます。

なお、カルフォルニアは夏期の降雨が少ない地中海性気候なので、ヨーロッパぶどうの栽培が可能です。ただ、この地を16世紀後半に征服していたスペイン王は、本国でのぶどう栽培が圧迫されることからぶどうの栽培を禁止していました。しかし、19世紀になるとぶどう栽培が行われるようになり、現在ではワイン生産が盛んに行われています。

日本のぶどう

日本では、縄文時代の遺跡である、三内丸山遺跡から多くのぶどうの種子が発見されており、古くから食されていたことがわかっています。また土器の形状から推測すると、生食だけでなく、発酵させてワインのようにしていたのではないかとも考えられています。ただ、当時のぶどうは、現在のぶどうより酸味や苦味があるヤマぶどう、エビズルなので、現在主流のぶどうの祖ではありません。

現在のぶどうの始まりとも言えるぶどうは、山梨で発見された「甲州」です。この由来にはいくつか説があり、1186(文治2)年、雨宮勘解由が現在の勝沼町の山中で発見した説、奈良時代の僧 行基が718(養老2)年、諸国巡礼の際に勝沼に立ち寄り、持参した種子を播いたとする説、中国大陸から渡り鳥によって運ばれたとする説があり、はっきりと由来はわかっていません。

「甲州」は、ヨーロッパぶどうのオリエンタリス群の品種がシルクロードを通って日本に伝来する際、様々な野生ぶどうと交配を繰り返してきたと考えられています。現在でも生食、醸造用として利用されている「甲州」は、山梨の栽培者によって大事に栽培された歴史あるぶどうです。また、江戸時代から昭和初期まで、京都に「聚楽」というヨーロッパぶどうが存在しましたが、残念ながら消滅してしまいました。

鎖国により諸外国との交易がほとんどなかった日本は、明治時代になりやっと、諸外国からぶどうが導入されるようになりました。しかし、ヨーロッパぶどうは降雨の多い日本では「マスカット・オブ・アレキサンドリア」などの施設で栽培される一部のぶどうのみしか栽培できませんでした。アメリカぶどうは、耐病性があることなどから、日本でも栽培が可能で、「デラウェア」「コンコード」「キャンベルアーリー」などが導入され、日本各地で栽培されるようになりました。

しかし、食味の優れるヨーロッパぶどうを日本でも根付かせたいと思う育種家の努力により、ヨーロッパぶどうとアメリカぶどうを交配した、日本の気候に合った食味優れるぶどうが開発されるようになりました。川上善兵衛により育種されたマスカット・ベーリーA、大井上康による巨峰、井川秀雄によるピオーネなどは、代表的な交雑品種です。日本ではヨーロッパのように醸造用の品種はあまり育ちませんが、日本独特の生食で楽しめるぶどうが開発され、独自の進化を歩んでいます。

ぶどう偉人伝近代ぶどうの礎を築く
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川上善兵衛

近代ぶどう栽培の父

川上善兵衛は、慶応4年(1868)、大地主の長男として現在の新潟県上越市に生まれました。当時の日本は、「文明開化」「殖産興業」を旗印に、近代国家へと脱皮を図る時期で、善兵衛もまた進取の精神に富む人だったので、福沢諭吉の慶応義塾で学び、あの勝海舟とも交流があったといわれています。この海舟との交流で、今後は食生活が欧米化すると確信し、ぶどう栽培するキッカケの一つといなったとも言われています。

鎖国が解かれると、海外との貿易が盛んになり、それまで一部の人間にたしなまれる程度だったワインも輸入されるようになりました。そこで善兵衛は、貧困に苦しむ農民の救済と、殖産興業のため、広大な自宅の庭を開墾して「岩の原葡萄園」を造り、ぶどう栽培とワイン製造を始めました。ここでは、多くの農民を従業員として雇ったので、農民の生活は向上しましたが、経営は苦しく、善兵衛は私財を投げ打ってまでこの葡萄事業に人生を懸けました。

その後、養子に葡萄園の経営を委譲した後、本格的に育種に取り掛かりました。500以上の品種の試作栽培しましたが、結果は思わしくなく、そこで、米国ぶどうの栽培し易さと、欧州ぶどうの品質の良さに着目し、両方の品種を掛け合わせてみました。その中で誕生したのが、善兵衛の代表作で、現在でもワイン用として親しまれている「マスカット・ベイリーA」です。この品種は、欧州ぶどうと米国ぶどうを祖先とし、1800年代後半にアメリカで育成された「ベイリー」と、英国産で、比較的耐病性のある「マスカット・ハンブルグ」を掛け合わせたぶどうで、生食、醸造用の両方に適し、現在でも多く生産されています。

大井上康

ぶどう育種家の巨匠 巨峰生みの親

巨峰の生みの親 大井上康は、明治25年(1892)に海軍少将の子供として、広島県の江田島で生まれました。しかし、幼少の頃に結核性関節炎を患ったため、片足が悪く、軍人にならずに農学を志しました。大正6年(1917)に東京農業大学卒業後、日本で最初の洋酒バーである「神谷バー」を経営する神谷酒造の牛久葡萄園に、主任技師として招かれ、栽培と研究の日々を送りました。しかし、企業の営利にとらわれることなく、自分の農業理論を実践し研究したいと考えるようになり、大正8年(1919)に、静岡県中伊豆町に「大井上理農学研究所」を設立しました。しかし、市井の研究家だったので、費用の捻出に苦労し、農作物の販売やメッキ加工などで糊口を凌いでいました。

大井上が目指したぶどうは、「雨の多い日本でも栽培できるおいしい大粒のぶどう」で、着目したのが、枝変わりにより大粒化したぶどうを掛け合わせて、新たな大粒品種を作出することです。この枝変わりとはぶどうにはまれにみられる現象で、枝の途中で突然変異し、その先の果実や葉が、品種本来の形状より大きくなることです。

そこで、岡山県で発見された「キャンベルアーリー」の大粒枝変わりである、「石原早生」と、オーストラリアで発見された「ロザキ」の大粒枝変わりである、「センテニアル」を掛け合わせてみることにしました。しかし、「センテニアル」は南半球のオーストラリアにあるため、赤道を通って輸入しなければなりませんでした。輸送手段が船舶しかなかった時代なので、輸送中の枯死が多く、苦労の末、やっと自分の圃場に根付かせることに成功しました。その後交配し、そのうちの優れた1本を研究所から見える富士山に因で「巨峰」と名付けました。

また、大井上の功績として、「栄養周期説」を唱え普及に努めたことも挙げられます。「栄養周期説」とは、官の技術者が推奨する、窒素肥料を多く与える栽培方法とは異なり、作物の成長過程で、必要な時期に必要な肥料を適量与えるということです。例えば、生育期には窒素を与えるが、成果物が成る生殖段階には窒素を切らすことにより、樹体を無駄に大きくせず、実に養分を集中して与えることができるということです。当時はなかなかこの理論が理解されず、逆に弾圧され、失意のまま昭和27年(1952)に60歳でこの世を去りました。弟子の恒屋棟介は弔辞で「われらは天動説を否定し、地動説を信じて死の思いをしたコペルニクスの教え子、ガリレオたらん」と、大井上の思いを引き継いでいく覚悟を誓いました。

井川秀雄

誰がなんと言ってもやってみないとわからない

岡山名産のピオーネを育種したのが、井川秀雄です。井川は明治29年(1896)に静岡県伊豆長岡町に生まれました。井川家は資産家でしたが、井川が少年時代には家産が傾いていたので、促成栽培や西洋野菜など当時としては新しい農業に取り組み家計を助けていました。

井川が20歳の時、将来を左右する大きな出会いがありました。それは、静岡で精力的にぶどうの育種に取り組んでいた、大井上康です。大井上からぶどうの育種について手ほどを受け、以後ぶどう精農家として露地ぶどうの栽培に励みました。

1950年代半ば、井川が50歳半ばになると、育種に取り組むようになりました。井川は、巨峰よりも栽培容易で、巨峰以上の品質のぶどうを作りたいと考え、それにはまず、日本で交配し選抜した品種でなければ日本の気候風土に合わないという思いがありました。そこで、巨峰にカノンホールマスカット(マスカット・オブ・アレキサンドリアの4倍体芽条変異)を交配し、ピオーネを作りました。

ピオーネは巨峰より花ぶるい(花が咲いた後、結実せず落花してしまうこと)が激しい品種です。このため、ジベレリン処理による結実向上を図り、さらに種なしで大粒になることで消費者の嗜好をつかみました。このことが現在主流となった、多くの大粒種なし4倍体品種の栽培方法を確立したきっかけとなりました。

「誰がなんと言ってもやってみないとわからない」 井川の名言として語り継がれている言葉です。 ピオーネはイタリア語で開拓者という意味ですが、まさに井川は進取の精神を持ってぶどうの育種に励んできました。ピオーネ以外にも多くの優れた品種を今に残し、また精神を現代のぶどう栽培に携わる人間にの残したことが大きな功績だと思います。