観音院庭園 |
寛永9年(1632年) 岡山藩主 池田忠雄公死去に伴い、嫡男 光仲公が3歳で家督を継ぎましたが、徳川幕府の"備前(岡山)は手先(てだれ)の国なれば、幼少にて叶うべからず"との達しで、因幡、伯耆の2州に国替えとなりました。これにより、池田家が帰依していた光珍寺の住職 世宣伝法印は帰依僧として随伴が命じられ、栗谷に寺地を与えられ、観音寺を興しました。
その後、寛永16年(1639年)頃、上野の現在地に移り、観音院と改称いたしました。
作庭時期は、元禄時代末期とされている庭園は、建物に対して池を広く造り、対岸に築山や背後の源太夫山の谷筋を活かした山畔が特徴の池泉観賞式庭園です。ただ、池泉観賞式ですが、鑑賞のポイントは、書院に座してだけではなく、観音堂の裏や竹林入口からも眺められるよう工夫されています。池には亀島を浮かべている蓬莱様式で、亀島の東側には生得の滝と呼ばれる石組があります。築山は、自然の山畔を築山に見立てており、中央部が逆三角形の芝生で覆われています。ここには、2群1石からなる遠山石を配した遠山の景が見事です。
かつての室戸台風、鳥取大地震で、護岸の石や石組がゆるんだり、崩落したりなど大きな被害にあいましたが、昭和59年度から昭和62年度にかけての保存事業で復興しました。 面積1320㎡ 国指定名勝
鳥取砂丘にも近い、観音院に行ってきました。
山門をくぐると、まず左手の斜面に目が止まります。かなり急な斜面が剥き出しで、そこに樹木を植えています。法面保護に苦心しているのではないでしょうか?
庭園は6月という時期もあり、緑や太陽光線が濃く、鮮やかな印象でした。庭前方の池から日の光が反射し、眩しいくらいの庭が前方に浮かび上がっていました。座観式で、書院から抹茶を飲みながら鑑賞していましたが、庭の中も散策することができたのは、とても喜ばしいことでした。保護のために庭園内に入ることが出来ない庭も多いのですが、ここは違います。さまざまな角度から眺めてみると、庭の表情の変化で印象が異なることがわかります。竹林入口から書院等の建物をバックに庭を見ると、書院から見た緑が多い景観とは違い、建物の木材の色と、緑との色彩の違いでよりいっそう庭が引き立ちます。
広くはありませんが、座ってよし、歩いてよしの心地よい庭園です。