名古屋城二ノ丸庭園 |
徳川家康は、江戸幕府の東海道の要所として、また大坂への備えとして、清須(現清洲町)から城を移すことを決意し、廃城となった那古野城の横に名古屋城として、慶長15年(1610年)に着工、慶長17年(1612)に完成させました。城普請を行ったのは、築城の名手の加藤清正と福島正則、池田輝政です。
現在の二之丸庭園がある場所は、大永年間(1521~28年)に、今川氏親が那古野城を築いていました。しかし、今川氏豊の代に織田信秀によって攻め落とされ、ここで織田信長が誕生しました。
後に織田信長は、清須城を攻め取って移ったので、那古野城はおじの信光に譲りました。しかし、信光は家臣に殺され、代わりに佐渡守信勝が城代として居城しましたが、叛心のため信長から追われ、那古野城は廃城となりました。
二之丸庭園の作庭者は、様々な説があります。二之丸庭園は南庭と北庭があり、
南庭は
①徳川義直説
徳川家康の子である義直は、家康が死去した元和2年(1616年)に名古屋城に移りました。
家康より、尾張藩62万石の他に、天領の木曾と美濃の久々利が与えられ、伐採した木材を木曾川から運ぶことで多大な利益を受けました。こうした家康の配慮に対する感謝の念として、木曾路の名勝、寝覚の床の景観を模した「寝覚の御庭」として表しました。
②今川説
今川氏は趣味が深く、庭づくりに興味があり、庭拝見の礼式まで規定していました。このため、那古野城築城時に作庭したのではないか。
③福島正則説
今川氏親の子氏豊の妻は福島正則の女であるため、今川氏と福島正則は親密な関係でした。また、「金城温故録」に、福島正則が木曾の寝覚の床を写した庭を作庭したことが記してある。
北庭は、
①上田宗箇説
上田宗箇の作庭様式である玉澗流で作られています。玉澗とは、中国南宋の僧であり、水墨画に傑出していた人物。玉澗の描いた、遠山二峯に高く滝が懸ってその渓谷上部に石橋が架かっている水墨山水画の景を基本とした作庭意匠を玉澗流と称している。
以上、様々な説があり、確証はありません。
現在では、南庭は徳川義直が、北庭は上田宗箇が作庭したのではないかと言われています。
名古屋城内にある二之丸庭園と二之丸東庭園に行ってきました。
正門から入り、なにはともあれ天守閣を見学しました。外観は見事ですね。威風堂々としてスケールの大きさに圧倒されます。中に入ると、以前訪れた時よりだいぶ新しくなった印象があります。なにせ以前訪れたのは22年前ですから、バリアフリー対応など様々な改修がされたと思います。
天守閣を降り、二之丸庭園に向かう途中で多くの人が集まっていました。まさか庭園を見学しにこんな多くの人が来るとは思えませんが・・・ そうか、今日は二之丸広場で中村勘三郎の歌舞伎が上演されているのか・・・
名古屋城内で歌舞伎とは驚きました。ちなみに妻は庭にはまったく興味をみせず歌舞伎を見にいってしまいました。
二之丸庭園は以前NHKで滝田栄が案内役で紹介されていました。テレビを見た感じ、広い庭園なのかなと思っていましたが、二之丸庭園自体は驚くほどコンパクトです。テレビで見た石組みはありましたが、あまりにコンパクトなので本当にここなのかな?と不安になりました。案内図を見てやっぱりここかと思ったほどです。
庭は粉河寺を作庭した上田宗箇が作ったと言われるだけのことはあって、石組の迫力は見事です。写真でもこの迫力は伝わるのではないでしょうか。ただ、見るべきポイントが非常に限られているので、庭を楽しみたい方には少し不満が残るのではないでしょうか。
横にある二之丸東庭園は、明治時代に壊された二之丸庭園を発掘し復元した庭園で、建物跡や北池・南池などを見ることができます。池には水が張られていないので、最初は庭園には思えません。在りし日も枯池だったのでしょうか?水があれば景観も良くなると思いますが。