旧芝離宮恩賜庭園 |
この地はかつて海でしたが、明暦(1655~1658年)頃に埋め立てられ、寛文年間(1661~1673年)に会津若松城主 加藤嘉明が自然庭園として作庭した後、元禄年間(1688~1704年) 小田原藩主 大久保忠朝 所有となり本格的な庭園として整備されました。
大久保彦左衛門で知られる大久保家は、徳川家康から家光まで3代に仕えてきた名家でしたが、忠隣の時代に失脚し不遇の時代を過ごしていました。忠隣の孫である忠朝は、4代将軍 家綱の小姓として出仕し、恩寵を受け老中になりました。これを祝して、将軍より旧芝離宮庭園の地を拝領しました。大久保家を再興した忠朝はその後、父祖の地である小田原藩主に復帰し、小田原から庭師を呼び作庭させ、「楽壽園」と名付けました。
その後、数氏をを経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷、明治4年(1871年)には有栖川宮家の所有となり、明治8年(1875年)宮内省が買い上げ、翌年に芝離宮となり迎賓館も建てられました。(震災で焼失) 大正13年(1924年) 昭和天皇の御成婚を記念して東京市に下賜され一般公開されるようになりました。
作庭時は、品川湾の海水を引きいれた回遊式潮入り池泉で、潮の干満により中島の景観の変化を楽しめるようになっていました。蓬莱島を意匠した中島は、中国杭州の西湖の景を写した西湖の堤と木の橋の2本の橋が架けられ、浜は、寛永時代ごろに流行した栗石敷きで造られています。この浜は、潮入り式に対応した二重砂浜となっています。
園内は、中島の蓬莱石組、枯滝、三尊などの力強い石組みや、洲浜の雪見灯籠、大島と根府川山を結ぶ一枚岩の鯛橋など見事な石造物が多いのも特徴です。国指定名勝。面積43,175㎡
浜離宮庭園とは直線で約300mの距離にある旧芝離宮庭園に行ってきました。浜離宮が近くにあるので地図で見るとどうしても比較してしまい、ここは狭い庭園なんだろうなと思っていました。実際は思ったより狭くはなく、かといって広大でもなく言ってみればちょうどいい大きさの大名庭園でした。
入口を入るとまず藤棚が目につきます。4月下旬から5月上旬までの間、紫に咲いた藤の下からほぼ一望できる園内を観賞するのは最高の贅沢でしょう。
洲浜には、旧芝離宮と言えばまず頭に思い浮かべる雪見灯篭が据えられています。これは、離宮時代に据えられたと言われており、脚は安山岩で、脚以外は砂岩でつくられています。
池の周囲を歩くと、中島と作庭当初から存在したと言われる西湖の堤が大きく見えてきます。見るからに頑丈な石橋で、小石川後楽園の同名の橋とはだいぶ違います。橋の上に草が繁茂している小石川後楽園の西湖の堤と比較してみるのも面白いですよ。
中島の石組は、何も知らないと何故石ばかりこんなに転がっているのかなと思ってしまいますが、作庭当初から据えられている歴史ある石組で、貴重な物を見ているのだなと頭を切り替えると不思議によく見えてきます。
全体的に平坦な庭ですが、大山、裏山などのアクセントもちりばめられ楽しく散策できます。おすすめのビューポイントは、JR浜松町駅の旧芝離宮から遠い改札の簡易的な展望エリアです。やっぱり上からの眺めはいいですね。