首里城 |
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14世紀~15世紀後半にかけて、琉球では北山、中山、南山と呼ばれた3勢力が対立していた三山時代でした。1429年に琉球を統一した尚巴志が、1406年に中山を制圧した時に、拠点を首里城に移し統一しました。首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成していますが、その後何度か焼失、再建を繰り返しました。1609年に琉球は薩摩に侵略されましたが、王国としての体制は維持されていました。しかし、琉球処分により1879年に国王が追放され沖縄県となると、首里城は日本軍の駐屯地となり、その後軍隊が引き揚げた後には学校施設として使われていました。
1930年代には大規模な補修工事が行われましたが、1945年(明治20)の沖縄戦で、アメリカ軍の攻撃により首里城は焼失してしまいました。その後、1950年(昭和25)にこの跡地に琉球大学が創設されましが、本土復帰後、大学の移転により、復元事業が推進され、1992年(平成4)11月に今の姿に甦ることになりました。2000年(平成12)12月には、首里城跡が世界遺産に登録されました。
首里城の建築様式は、日本、中国両国の影響を受けており、日本風の南殿、中国風の北殿、両国の影響がある正殿が有名です。
首里城は、「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあり、また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上の拠点でもありました。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍しており、首里城は文化芸術の中心でした。
日本でありながら琉球王国として違った歴史を歩んできたため、地味な色遣いが多い本土の建築物とは異なり、朱の壁、赤い瓦、きらびやかな獅子、金龍の装飾等の色彩に驚嘆させられます。
最近、全く見かけなくなった2千円札に登場する守礼門をくぐっていくと、建造物がすべて新しいことに気づかされます。沖縄戦で全て消滅し、1957年のアメリカ統治時代から復元工事が始められ、現在に至っているがからです。沖縄は日本で唯一行われた地上戦があった場所として、いたるところにその傷跡と復興がみられることに、その悲しい歴史を感じさせられます。ここでは、首里城内は博物館のようになっており、歴史、文化を資料や展示品で教えてくれます。