日本庭園の歴史

日本庭園の歴史

日本庭園の起源

現代とは違い、古代の人々は自然と強く共生していた。大きく広がる海、嶮しくも雄々しい山、猛々しい岩などに憧憬あるいは畏怖の念を抱き、ときには神として崇拝していた。磐座・磐境、神池・神島など、これらは日本庭園の起源となっていると考えられている。 このような、池を掘り、島を浮かべ、石を神と見立て崇める習慣が、後の中国、朝鮮から移入される庭園文化を受け入れる下地になっていたと考えられている。


磐座・磐境
山中、山頂に設けられた巨石群で、巨石崇拝に基づく古代祭祀のひとつ。

神池・神島
祭神を定め神社を建立したとき、境内に池をつくり島を浮かべて神を祀った。後の池泉式の先駆。


中国庭園思想の影響

古代中国では不老不死、永遠の生命を求める神仙思想があり、達成した仙人は東海に浮かぶ蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)・壺梁(こりょう)の四島からなる神仙島住んでいるとされていた。 中国や朝鮮半島の庭園では古くから神仙思想に基づく庭園がつくられており、日本にも飛鳥時代に伝えられ、飛鳥京跡苑池遺構などに取り入れられた。以後の日本庭園のデザインに大きな影響を与えている。


飛鳥・奈良時代の庭園

教伝来とともに庭園文化も大陸から伝わり、本格的な庭園つくりが始まった。

日本最古の庭園としては、平成11年(1999年)、奈良県明日香村で発見された園池跡が、飛鳥京の宮廷庭園である可能性が高く、最古の庭園遺構であると考えられている。 この遺構は、数千㎡に及ぶ池には底にこぶし大の平石が敷き詰められ、石を積み上げた中島が配されている。護岸は人の頭大の石を三段に積んだ高さ80cmほどの石垣となっている。

また、「出水の酒船石」と呼ばれる石造りの流水施設や、池に突き出た涼み床が設けられているのが特徴で、朝鮮半島の百済の園池と、新羅時代の両方の特徴を備えており、当時の政権が進んだ文化を採り入れてることを誇示するために作られた可能性があるといわれている。「日本書紀に登場する「白錦後苑」である可能性もあり、日本庭園の起源を探る上で貴重な発見である。

主な庭園
平城京左京三条二坊宮跡庭園(奈良) 東院庭園(奈良)

平安時代の庭園

平安遷都とともに本格的な日本庭園の歴史が始まった。 特に京都は、優美な稜線の山、起伏にとんだ地形、大小の清流など自然条件に恵まれ、また、豊富な植物材料や庭石を産したので、作庭には絶好の地である。この時代の庭園様式は寝殿造庭園と浄土式庭園の2通りある。

寝殿造庭園

平安時代中期になると、中国とは違った日本独自の様式である寝殿造庭園が発達した。寝殿造りとは、平安時代の貴族が住んでいた住宅様式で、敷地は約百十メートル四方を基準とし、周囲には土を突き固めてつくった築地がめぐらされている。主人が住む中心の建物である寝殿、左右に家族の住む東対屋、西対屋が配置され、渡殿と呼ばれる廊下で結ばれている。東西の対屋から南へ渡殿が伸びており、その途中の門は中門廊と呼ばれる。その南端には池にせりだした釣殿が設けられ、魚釣り、納涼、月見、雪見などの宴に用いられたり、舟遊びの発着場としても利用された。

池の中には、いくつかの中島が築かれ、池の北岸からその中島には朱塗りの反橋が、さらには次の中島あるいは対岸の小高い築山の裾に向けて平橋が架けられ、池には遣水と呼ばれる水路によって水が流れ込んだ。 寝殿は南に面して設けられ、その全面には南庭(だんてい)と呼ばれる白砂敷きの前庭がつくられた。ここでは、様々な年中行事がとり行われる場とされた。

現存する寝殿造庭園は残されていないので、橘俊綱が書いたとされる「作庭記」のほか、貴族の日記や絵巻物を手がかりに研究が進められている。

四神
中国で漢代以降、東西南北の守護神とされた4種の神獣。東に青竜、南に朱雀、西に白虎、北に玄武をあてる。「作庭記」には青竜の水は悪気を白虎の方向に洗い流すので遣水は東から西へ流すべきである、屋敷の四方にはふさわしい樹木を植えて四神具足の地とするべきである等の記述があり、寝殿造庭園の作庭において大きな影響力があった。


浄土式庭園

極楽浄土の世界をこの世に再現した庭園で、阿弥陀堂と園池を一体として築造した仏寺の庭園様式である。平安時代の貴族社会は、阿弥陀如来を中心とした極楽浄土を究極の理想郷とする浄土思想が盛んになり、数多くの浄土式庭園を造った。天平宝字5年(761年)の光明皇太后一周忌に造営された法華寺阿弥陀浄土院庭園遺構で園池が発掘され、これが浄土式庭園の始まりと言われている。

平等院庭園は、もっとも典型的な浄土式庭園の一つで、西方の極楽浄土思想に基づき、阿弥陀仏は東向きに座り、それを覆う堂を前庭の池を介して仰ぎ見る配置がとられた。こうした方位を意識した空間構成が採られる一方、翼楼をともなう阿弥陀堂の形状や、洲浜を用いた曲池などには、寝殿造の建物と庭園の様相が色濃い。平等院庭園はその後の浄土式庭園に及ぼした影響は大きく、一つのモデルとなった。

主な庭園
毛越寺庭園(岩手県平泉) 浄瑠璃寺庭園(京都)

鎌倉・南北朝時代の庭園

鎌倉に武家政権ができたが、文化の主導権は依然として京都にあった。このため、武士の隆盛とともに興隆した禅宗寺院であっても浄土式庭園であった。

この時代の特筆すべきは石立僧である夢窓疎石(1275~1351年)の存在であり、京都の西芳寺(苔寺)、天龍寺など後世に大きな影響を与える庭を造った。この庭は、禅の思想とも深く関わりあった残山剰水という、自然の景のなかの一部、小さな眺めをいくつも組み合わせ、全体としてまとまりのある構図を表現する技法で使っている。

石立僧
作庭に従事した僧侶

残山剰水
本来は「敗残亡国の山水」をあらわす中国の詩語。山水画における風景を画面の一角に寄せて描くことで、画面に余白を多く残す手法。余白、画面外に風景が広がっていることを暗示させる効果があり、枯山水庭園にも応用されている。

主な庭園
西芳寺(京都) 天龍寺(京都) 永保寺(岐阜県多治見市) 瑞泉寺(鎌倉)  恵林寺(山梨県塩山市)


室町時代の庭園

西芳寺庭園に大きな影響を受けた鹿苑寺(金閣寺)と慈照寺(銀閣寺)の庭園が作庭された。この2庭園は、平安から鎌倉時代の美を受け継ぎつつ、新しい禅宗の造形感覚を加味している。

新しい作庭方法として、枯山水が出現したのはこの時代である。水を使わず、石や砂で山水の景を表現していおり、龍安寺(京都) 大徳寺大仙院(京都)はあまりにも有名である。禅宗の隆盛により、抽象的な芸術、陰の余情を好む傾向となり、禅の自然観を石や砂で限られた空間に象徴化した枯山水は大いに流行していった。

書院
縁側に張り出し、前面に明かりとりの障子を造り付けた机。鎌倉時代に帰朝僧が伝え、椅子式から座式への転換が図られた。

書院造
寝殿造が発展し、室町時代から安土桃山時代に成立した武家・公家・寺院などの住宅様式。書院を中心に構成。

安土桃山時代の庭園

不老不死を祈念する鶴亀蓬莱を表現する石組みと、書院造の住宅様式が相まった書院式庭園が多く造られた。

また、戦国大名が力を誇示するために競い合って作庭された。豊臣秀吉が造った醍醐寺三宝院は、自ら指示をし、石をふんだんに使った贅をつくした庭となっている。

千利休によって侘び茶が大成され、茶室に至る露地の様式が完成した。渡り用の飛石、心身を清める蹲、露地の灯りである灯籠が据えられたこの様式は茶庭という。


江戸時代の庭園

諸国の大名が競って大庭園を作庭した時代である。多くは大池泉のある、回遊及び舟遊式であり、ポイントに四阿、茶亭、橋を設け楽しみながら園内を回遊できる総合庭園であった。

また、中後期になると作庭方法を記した「築山庭造伝(前編)(後編)」が出版され、庶民の住まいにも庭が造られるなど一般化していった。元禄時代以降は園芸文化も成熟し、200冊を超える園芸書が出版され、植木職人はウメ、サクラ、ツバキ、アサガオなどを競って育種し、庶民の間でも大いに流行った。

築山庭造伝
名称は同じだが、作者も時期も異なっている別物である。前編は、1735年 北村援琴が後編は1828年 、秋里籬島が著した。

主な庭園
小石川後楽園(東京) 浜離宮恩賜庭園(東京) 栗林公園(高松) 水前寺成趣園(熊本)

近代の庭園

近代国家に変わり、廃藩置県、四民平等により多くの大名の力が衰えていった。西洋文明が入ってくると、海外との貿易などで富を得た商人、政府高官などが多くの庭園を造っていった。植治こと小川治兵衛が作庭した無鄰庵、平安神宮神苑、碧雲荘などの庭は、借景、流れ、軽やかな配石、広々とした芝生とそのなかを縫う曲線的な園路といった植治独特の作庭手法が窺える。また、西洋の整形式庭園の影響を受けた庭園も現れ、新宿御苑、旧古河庭園などが代表的である。

主な庭園
清澄庭園(東京) 旧古河庭園(東京) 三渓園(横浜)

造園メニュー

岡山 太陽のそばの果樹園
〒716-1131
岡山県加賀郡吉備中央町上竹688-2

園主写真



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